殿さんのお遍路・巡礼日記

四国八十八箇所霊場は、約千二百年前に、弘法大師(空海上人)が修行された霊跡として、多くの人々の篤い信仰により支えられている。その道程は、阿波(発心の道場)、土佐(修行の道場)、伊予(菩提の道場)、讃岐(涅槃の道場)、とおおよそ千四百五十キロメ-トルにおよびます。以前から少しづつですが徒歩で遍路に挑んでいるので書き綴っていきたいと思います。
北に比叡山の天台宗総本山・延暦寺。南には真言宗総本山・弘法大師空海の高野山。其の空海が古代のままに修行道と聖地を残す四国路に今もそこに根ずく遍路のルーツは歴史をさかのぼる事、千年を遥かに超える。山中には昔ながらの遍路道が残り、多くの修行者を見送った古代の標石を見る事ができる。そして、行者たちが修行を行った山岳や海辺の難所は聖地として、現在も多くの人々がこの地に訪れる。
昔から様々な巡礼があるなかで、四国での巡礼だけが「遍路」とよばれるのはなぜだろうか?? そこは元々四国の海岸で行われていた修行の歴史が関係しているそうだ。最初に四国を修行する人々の様子が書かれるのは平安時代に入ってのことで。しかし、この比は、修行者が厳しい海岸の路を歩き修行する姿が記されているだけで、現代のような遍路の姿とはいえない様子だったとか???其の当時の文献では彼らが何を求めて修行していたかは明記されていないようだが、修行者たちが伊豫、讃岐、阿波、土佐と四国の海岸を選んで修行していることから、当時、海の彼方にあると信じられていた神道上の世界「根の国」へ渡ることを願った修行の一環ではないかと考えられているようです。そして、この中で注目すべきことが、修行が行われていた”海岸沿いの道や土地”のことを「辺地」(へち)と称しているという点です。後に、この修行に変化が訪れ、広まりつつあった仏教の流入によって、仏教の中で海の彼方にあるとされていた「補陀落浄土(観音菩薩が住まわれる浄土)」とが「根の国」と重なり。仏教の拡大と共に、「根の国」信仰と「補陀落浄土」信仰は混同していったのではないかと考えられて居るようです。その後、補陀落浄土に至るための修行は、大師信仰が四国に広まるにつれ、お大師さまを思い四国を巡る現在のような遍路に変わってゆくこととなり、その際、当初、海辺の道や土地を表す言葉「辺地」・「辺路」は、「偏禮」「邊路」と変わりその後「遍路」と変化していったようです。また、その読みも中世以降、「へち」・「へじ」から現在の「へんろ」と変化したそうです。

参拝時の心得。
寺の山門前で合掌一礼する(お大師様のお出迎えに対する礼儀)
山門をくぐったら口をすすぎ、手を洗い、身を清める。
鐘楼堂にて梵鐘をついてもよい(ゆっくりと2打)お大師様お参りに来ましたよ・・・・・  と言った挨拶です。お参りを済ませた後で鐘をついてはいけません。出鐘といってもう一度お参りをしなければなりません。
本堂にて納め札または写経を所定の場所に納める。
※お賽銭・お供え物等をあげる。※ローソク、線香(3本)をあげ、経本に従ってお経をお唱えする。

(お経は通常、在家勤行次第)
念珠は右手は中指、左手は人差し指に掛けて三度程すりあわせ、左手に一重でかけて経を唱える。
次に大師堂に参拝して、本堂と同じように礼拝する。
お参りが終わったら納経所にてお納経を受けて下さい。
他のお堂等もお参りして下さい。
寺を出る時は、山門にて合掌・一礼をする。
参拝時の注意事項
灯明の際、貰い火をしないようにマッチ、ライター等は必ず持参して下さい。
橋の上では杖をつかないように(お大師様が今でも橋の下で寝ておられると考えられています)
念珠は首に掛けてはいけません。必ず左手に持ってください。
巡拝の途中で他のお遍路さんと出会ったときは(よくお参りで・・・)と挨拶を交わす。

◆なぜ八十八ヶ所?

定説はありませんが、八十八と言う数字は人間の持つ煩悩の数で、満願成就すると全ての煩悩が断滅して成仏できるというので八十八ヶ所が定着したと言う説。『米』の字に通じるから五穀豊穣を祈る数であると言う説もあります。男42・女33・子供13の厄年を合計した数と言う説もあります。

◆遍路における禁じこと

まず、一番札所の大師堂で「授戒」をうけて順礼に旅立ちます。授戒=十授戒とは・・・・。
不殺生 生き物を殺さない不偸盗 盗みをしない不邪淫 邪淫しない不妄語 うそや偽りをいわない不綺語 へつらいをしない
不悪口 悪口を言わない不両舌 二枚舌を使わない不慳食 むさぼらない

◆遍路の三信条

1・摂取不捨(仏は決して衆民を見捨てず、守ってくださる)を信じ、同行二人でいることを忘れずに。
2・愚痴や妄言を慎む。
3・現世利益(今生きているこの世での仏の恵み)を感謝し巡拝しながら一つ一つ煩悩を消していく。

◆お遍路さんの心得

●宿では、金剛杖を洗いましょう
金剛杖はお大師さまの分身です。お大師さまの足を洗うように心をこめて洗いましょう。
●橋の上では杖はつかない
お大師さまが十夜ヶ橋の下で修行なされた故事にちなんで橋の下ではお大師さまがお休みになっておられるといわれています。
●相互礼拝・相互供養
他の同行に会ったときは、「南無大師遍照金剛」と唱え挨拶をかわしましょう。
●参拝後、鐘を撞いてはいけません
帰りに撞くと、出鐘といって、もう一度お参りをし直すことになります。
終わり無き遍路の旅へ・・・

四国88ヶ所の遍路における所定の寺院は「札所」と呼ばれ、1番から88番まで番号がついています。また、「巡礼」といわず「巡拝」と呼ぶのが普通だそうです。通常は、徳島県内の第1番霊山寺(りょうぜんじ)から始め、番号の順番に札所に参る事を「順打ち」と言い四国を右まわりに1周して、香川県内の第88番大窪寺で終了します。また、今年のような閏年に当たる年は、88番の大窪寺から逆に回る人が多いようで此れを「逆打ち」と言います。88カ寺すべてに参り終えることを「結願(けちがん)」または「満願(まんがん)」と言い 結願すると、「お礼参り」として、最初回り始めた第1番霊山寺、または88番大窪寺まで戻る場合もあるようで 結願後、お礼参りに続けて、和歌山県の高野山に参詣する人もあります。また、必ずしも第1番からではなく、途中から始めることもでき、都合のよい札所から始めて1周し元の札所にお礼参りすればよいのです。

その長い歴史に支えられた四国遍路のシステムは、今も生きています。四国遍路は現代人にとってどのような意味を持っているのだろうか??
現代、年間15〜20万人の遍路が四国を巡っているようですが・・・その大半は車やバスを利用していますが、中に1500人程度の方達が歩き遍路をされているようで「通し打ち」一度に札所を全て回る事・を志す方も多く、今回出会った方の中で31回目と言う方も居ました。歩き遍路を志す方も沢山居ると聞きまが、途中 足を痛めリタイヤする人も少なくないようです。
一口に遍路と言っても所定の88箇所のお寺を回るのに徒歩で回れば1200キロの行程で50日前後で、最近のほとんどの人は四国参りのツア-などに参加する方が大半と聞きますが、しかし其れでも1400キロの距離なのでどちらにしても一度に回りきるのは大変なことです。
遍路の動機としては、「家内安全」、「祖先や死者の供養」というのが定番と聞きますが、歩き遍路の場合は、これらに加えて「修行」とか、さらに宗教的な意味合いを全く離れて、単に歩くことを目的とする人も多く、中には「失恋」や「自分探し」や「癒し」といった精神的なもの、自己鍛練など、実に様々です。

遍路と単なる旅行者をへだてるものは、その服装でしょう。遍路の服装の基本は白装束と金剛杖です。菅笠、手っ甲・脚絆となると、もっと本格的になります。現在でも、遍路の多くはこうした装束を身につけ、四国の街や山を歩いているのです。都会では奇異に見えるこの姿も、四国においては風景に溶け込んでいます。


一月吉日、とうとう四国霊場の日がやって来た。自宅を1時に出て一路和歌山港に向かう。事前に予約を取っているので必ず乗船出来る安堵感がある。2時40分発の南海フェリ-に乗り徳島港に4時50分着。国道11号線を北上し吉野川大橋を渡り更に北上し高松自動車道鳴門ICから西に走り板野ICで降りて県道12号線を左折10分ほど走ると一番の霊山寺がある。夜明けまで時間があり駐車場で少し仮眠を取る。今回のお遍路は出来るだけ歩く事を優先しながら回る計画をしいているが車の移動も計画にしいてる。此れは鮎釣り師にとって、どうしても見てみたいと言うか、季節によっては行って見たい川があるからです。しかし、遍路の途中なので釣りはしません。川の流れ、岩、石なぞ・・・自然の風景を見ておきたいと思い遍路の道中にコ-スを外れたりもするので、今回は車と歩きとを合わせた遍路になります。

第1番 竺和山 霊山寺・高野山真言宗・本尊 釈迦如来   
「一番さん」と呼ばれている。聖武天皇の勅願によって、天平年間に行基が開設。弘仁年間に弘法大師が修法し、その際に本尊を刻んだといわれている。宿坊には宿泊施設が完備し、門前町にも質素な旅人宿がある。仁王門を入ると右手に泉水池、奥に大師堂。左手に多宝塔。正面に本堂があります。6時半には本道の販売所が開いたので遍路の必需品を揃え車に戻り着替えを済ませ山門に立ち一礼し境内に入り水屋で手と口を清め本堂に納札を納め灯明(ロウソク)・線香をあげる。(奥から立てるのが礼儀) 賽銭をあげ納経する(お経を納める)。次に大師堂に行き納札を納め灯明・線香をあげ 賽銭をあげ納経する。その後、その他のお堂も周り、最後に納経所に行き納経の証として納経帳に黒書・ご朱印をいただく。受け付け時間は7時〜17時まで。納経料 [ 納経帳:300円、掛軸:500円、白衣:200円 ]そして、最後に山門に戻り門前で合掌、一礼して二番に向かう。


第2番 日照山 極楽寺・高野山真言宗・本尊 阿弥陀如来
一番・ 霊山寺から約一キロで平坦な道なので歩きやすいです。
重要文化財指定の木造阿弥陀如来像は弘法大師の作であるといわれ。この像から出る光が鳴門沖まで達し、漁の妨げになったという伝説があるらしい。岩石と樹木が調和した美しい庭園で、大師お手植えの「長命杉」樹齢千年は圧巻だった。


第3番 亀光山 金泉寺高野山真言宗 本尊 釈迦如来
二番・極楽寺から約3キロの道程。高松自動車道・板野ICを過ぎた所でした。
聖武天皇の勅命により建立されたといわれ、黄金井から霊水が湧いたため寺号を金泉寺と改められた。朱塗りの六角堂。大師が掘った「黄金の井戸」。弁慶が持ち上げた力石などがある。境内は広く平坦で高低差も無いので歩きやすく参拝しやすいが駐車場が少ないように感じた。



第4番 黒巌山 大日寺 東寺真言宗・本尊 大日如来
三番・亀光山から西に五キロの道程です。
途中、徳島自動車道をくぐった辺りから上り坂になり、愛染院を過ぎた辺りから少しタフな道になってきて最後は大日寺で道は終わっています。境内は杉山を背負った閑静なお寺さんで少し荒廃が目立つが、それがまた違う見方をすれば時の織り成す造形美に見えるのが不思議である。本堂と大師堂をつなぐ回廊に三十三体の千手観音がひっそりと並んでいるので、灯明に線香をを供えて上げてほしい。きっと手向ける人が少ないのだろう・・・
此処の駐車場の横で地元のおじさんが野菜を売っていたので少し休憩しおじさんと話が弾む。色々とおじさんに教わった中で・・・今年は順打ちをする人が例年より三割は少ないのだと言う。其れは、今年は閏年に当たるので逆打ちと言い88番から逆に回る事だそうで順打ちよりご利益があると言うらしい。


第5番 無尽山 地蔵寺 真言宗御室派 本尊 勝軍地蔵菩薩
四番・大日寺から真っ直ぐ下り徳島道をくぐり更に下ると地蔵寺に着く。二キロの緩やかな下り道なので歩きでも非常に楽な道程です。
五百羅漢があることから「羅漢さん」の名でしたしまれている。嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創した。本尊は大師一刀三礼の勝軍地蔵尊です。また、奥の院五百羅漢は、本堂裏手のコの字型にめぐらされた羅漢堂にあり、さまざまな表情の等身大の像が立ち並んでいる。樹齢800年の大イチョウ。境内に水琴窟がある。


第6番 温泉山 安楽寺高野山真言宗 本尊・薬師如来
五番・地蔵時から西にひたすら五キロを歩くと安楽時に着く。
境内は広く綺麗な宿坊も完備されている。昔、万病に効く温泉が寺の近くで涌き出ていたため弘法大師が当寺を建立し山号を温泉山、寺号を安楽寺と付けたと言う。少し離れた所に旧蹟があり、出土品も見られる。、境内には弘法大師お手植えの松があり、本堂は鉄筋で再建されたものでした。また、駅路寺(遍路の世話をする寺)でもありました。


第7番 光明山 十楽寺 高野山真言宗・本尊 阿弥陀如来 
六番安楽寺から徒歩で15分程度の道程で阿波市になる。
もともと十楽谷利奥に広大な大伽藍を誇ったといわれているが、天正の兵火にかかってすべて焼失した。その後再建されこの地に移ったが今なお付近に大門原・堂ヶ原・法教出堂ヶ原などの地名があり、当寺の名残をとどめている。当寺は盲目の霊験が多く、開眼の例も多い。寺宝として光高等竜宮真田幸村の茶釜などがある。お堂は寛永十二年に再建され、現在の本堂は明治の再建。本堂は真ん中で大師堂は左側の上にある。また、山門をくぐり入ると本堂より右手に見えるお食事所で、お寺さんと思えないようなレストランです。宿坊も併用しているようです。また、納経所もガラス張りで現代風でした。駐車場道向かいに有る うどん屋さんも美味しかったです。


第8番 普明山 熊谷寺 高野山真言宗  本尊・千手観音菩薩
七番から再び西にと四キロほど歩く。
弘法大師がこの地で修行され、熊野権現から一寸八分の黄金の観音像を授かって、等身大の千手観音の肺中に納められ御本尊として安置したといわれている。本堂は開設以来一千年余の歴史を誇ったが、昭和2年に焼失し現在の本堂は昭和15年に再建されたものである。現在大師堂を改築の様子でした。本堂付近からは徳島平野が見渡せます。
もう一つ熊谷寺に欠かせないのが巨大な山門です。四国霊場で最大といわれる二層の楼門です。車遍路だと見過ごすところなので、此処は是非歩いて山門をくぐる事をお勧めします。納経所も新しく綺麗でした。



第9番 正覚山 法輪寺 高野山真言宗  本尊・涅槃釈迦如来
八番熊谷寺から南に下って周りが田んぼに囲まれたところにひっそりとたたずんでいるお寺です。
もと白蛇山林寺と号してここより北3kmの地にあったが、天正の兵火により焼失した。現在の地に至って、今の山号に改めた。本尊は四国唯一の涅槃釈迦如来。境内の広さは普通だが山門を入り左手に真新しい納経所が際立って目立っていた。


第10番 得度山 切幡寺  高野山真言宗  本尊・千手観音菩薩
九番法輪寺から再び西に五キロほど歩き徳島道をくぐると民宿が数多く目に付く。
第10番札所 得度山 潅頂院 切幡寺 (とくどざん かんじょういん)
 お寺は切幡山の中腹にあり、山門から333段の階段と坂を登る。最頂上にも駐車場(普通10台、道狭し)があり、車で最上部まで行くとが可能だが、やはり此処までくれば333段の石段を登らないとご利益を頂けないのではと感じる。。境内には本堂、大師堂、その奥に、はたきり観音の銅像、鐘楼、大塔、不動堂。 民宿の多いのは此処の石段の疲れとこれから次に行く11番までの距離を考え宿泊するお遍路が多いのかも??また、この辺りの方が遍路の必需品が一割程度安いのも気になりました。以上、今回 回って感じた事 知った事を書き込んでみました。次回は、10番・ここ切幡寺の山門からスタ-トして11番藤井寺から始まりです。


第11番 金剛山 藤井寺 臨済宗妙心寺派  本尊・薬師如来
一月、二回目の遍路に出る。10番切幡寺から県道237号線を南に進み吉野川を超え約10キロの道程です。道中は細い道が多いが自然の豊かな風景がある。仁王門くぐり階段を上がると正面に本堂、右手に大師堂。本堂の横から山中を巡回するミニ四国八十八ヵ所があり、その途中に弘法大師が護摩壇を築いたとされる八畳岩がある。本尊の大日如来は奥の院にはを安置されていて、年号が分かっている仏像としては札所最古のもので国宝にも指定されているそうです。本堂左手には12番札所焼山寺への遍路道入口があるが、此処からが八十八ヶ所巡拝の中でも険しく苦しい山道に入る。俗に言う「遍路ころがし」と言う歩き遍路には最大の難所です。約13kmほど700mの高低差の山道で普通で6時間もかかり道中にコンビも無ければ何もない。途中にあるのは無人の長戸庵ともう一箇所ご夫婦でされている柳水庵があるがまだまだ12番までは遠い。


第12番札所 摩盧山 性寿院 焼山寺(まろざん しょうじゅいん):本尊・虚空蔵菩薩
藤井寺を出て長戸庵・柳水庵・浄漣庵までH740まで登り、左右内(そうち)と言う集落まで下る。此処から一気に焼山寺のH700まで登るが、この道中が一番きつい。(藤井寺から500mまで登り尾根に沿って740mの峠越えで其処から400mまで一気に下り再び800mの焼山寺へ急登する)焼山寺は標高880mの山腹にあり、境内は歴史深い杉の巨木のなかにある。山門をくぐりみられる樹周5mを超える杉巨木は徳島県天然記念物に指定されているとか・・・石段を上り正面に本堂。本堂右手に大師堂、左手に三面大黒天。奥の院は境内から歩いて約1kmの山頂にある。ここから13番の大日寺までは22キロの道程になるが、焼山寺から麓に下りれば鮎喰川に出る。此処からは川を見ながら歩けるので川を好きな私には余り苦にならない道中だ。


第13番札所 大栗山 花蔵院 大日寺 (おおぐりざん けぞういん):本尊・十一面観世音菩薩
焼山寺から鮎喰川まで下った所に鏡大師があり、其処から下流にひたすら歩く。途中、神山森林公園もあり鮎釣りに良い釣り場も数多く見かけられ大日寺まで22キロ前後の道程で6時間はかかる。寺に着き境内に入り正面に小さな観音像が建っていて、「しあわせ観音」と言われ親しまれているそうです。左手に本堂、右手に大師堂。正面が納経所となっています。寺名から本尊は大日如来かと思ったが十一面観世音菩薩をまつっていたのは以外でした。 この大日寺から第17番井戸寺までは近接しているため「五ヶ所参り」として日帰りでお参りが出来るので参比較的人も多いようです。




第14番札所 盛寿山 延命院 常楽寺(じょうらくじ)(せいじゅざん えんめいいん)本尊・弥勒菩薩
大日寺を出て左に歩いていると遍路道の案内があり、左に曲がると鮎喰川があり一の宮橋が架かっている。橋を渡り少し歩くと常楽寺の看板が目に入ってくる。3キロ少しの道中です。ここは、弘法大師がこの地で妙法の宣説をたまわったといわれ、特別に大師との因縁の深い所だそうで・・・本尊の弥勒菩薩は天正の長曾我部以来、数度の火災にあいながらもいつも安泰であったといわれている。境内は自然の岩盤の上にあり、岩肌がむき出しになっており、歩きにくいほどの断層がある。大きな岩床が本堂まで続き「流水岩の庭」と呼ばれています。正面に本堂、右手に大師堂があります。本堂も岩の上に建つ。本尊の弥勒菩薩は札所唯一だそうです。



第15番札所 薬王山 金色院 国分寺(やくおうざん こんじきいん):本尊・薬師如来
常楽寺の北800mにある。天正年間に聖武天皇の勅命で建てられた国分寺の一つであり、当時は七堂伽藍の整った大寺であったが、天正の大火で焼失したとか・・・山門をくぐり正面に本堂、その右に鳥琵沙摩明王堂、大師堂。その裏手に納経所。建立当時は寺領二町四方、鎮護国家の祈願所として七重大塔を備えた大寺院として知られていたが、天正年間(1573〜1591)の兵火で鳥志沙摩明王堂だけを残し焼失。その後の発掘により多くの遺跡発掘され、中心伽藍の回廊跡や、築地(ついじ)跡、礎石(そせき)等、出土遺物には土師器(はじき)、須恵器(すえき)、陶磁器、土馬(どば)、石帯(せきたい)、軒丸瓦(のきまるがわら)、鬼瓦等があり、当時の規模の大きさを思わせる。これらは徳島県の指定文化財となっています。本堂裏の庭園は、全国の庭園随一の巨立石や青石で石組みした築山の蓬莱山、遠山石、枯滝など安土桃山時代を代表する古庭園です。


第16番札所 光耀山 千手院 観音寺 (こうようざん せんじゅいん):本尊・千手観世音菩薩
国分寺を出て広い道路を跨ぎ最初の角を左に曲がりひたすら歩くと観音寺に着く。道中は2キロ少しの道程です。寺の周辺には商店が軒を連ねる旧県道沿いで全体に庶民の日常生活に近い感じのお寺の感じがした。仁王門をくぐり正面に本堂があり右手に大師堂。左手に納経所。本堂横には子供の夜泣きを鎮めてくれるお地蔵さんとして、よだれかけを幾重にも重ねた「夜泣き地蔵」があります。聖武天皇第四十五代が諸国に命じて、国分寺を創立させたのと同年の天平13年(741)、同じく聖武天皇の勅願道場として創立。その後、天正の兵火にかかって寺は焼失。現在の堂塔は、阿波藩主の手によって再建立されたものだそうです。



第17番札所 瑠璃山 真福院 井戸寺(るりざん しんぷくいん):本尊・七仏薬師如来
観音寺から国道192号線を渡りJR徳島線も渡り北に二キロほど歩くと井戸寺が見えてくる。仁王門にをくぐり正面に本堂、右手前に大師堂。その奥に日限大師。左手に手前から観音堂、納経所、宿坊。本堂では聖徳太子の作といわれる七仏薬師如来を間近に拝むことができる。七仏薬師如来は、七難即滅、七福即生、厄除開運などに霊験。井戸寺は天武天皇が白鳳2年(674)に勅願所として建てた妙照寺が、その前身とされている。現在の本堂は2度にわたって兵火により焼失後、慶長年間に再興されたものの、本堂は昭和43年の火災にて本尊を残して焼失。その3年後に再建されたもの。内部には座像の薬師瑠璃光如来を中心に、日光菩薩、月光菩薩、四天王、十二神将を安置してある。本堂横の井戸寺の名前の由来となった井戸は「面影の井戸」とされ、井戸内部をのぞき込み顔が写らなければ3年以内の不幸がくるとか、井戸に顔が映れば無病息災といわれています。


第18番札所 母養山 宝樹院 恩山寺 (ぼようざん ほうじゅいん):本尊・薬師如来
井戸寺から再び国道192号線の方に戻り鮎喰川を渡り、途中地蔵院が有り眉山の西側を南にひたすら歩き勝浦川を渡れば弘法大師御杖の水と言う所が有り此処まで来れば恩山寺まであと一息と言った感じで、井戸寺から徒歩で20キロの道程です。参道を上がると正面に本堂、左手に大師堂、その横に母公堂があります。山門の側に大師が母の来山を記念して植えたといわれる毘欄樹(びらんじゅ)が立っています。毘欄樹は県の天然記念物になっています。花折坂は現在も女人禁制。 寺号の由来となった大師の母君、玉依御前をまつった母公堂は、息子に会うために讃岐の地から旅をしてたどりつき、ここで髪の毛を剃って出家した、その時の髪の毛が納められているそうだか・・・恩山寺は、もともと大日山密厳寺と言い女人禁制のの寺であったそうです。


第19番札所 橋池山 摩尼院 立江寺 (きょうちざん まにいん):本尊延命地蔵菩薩
恩山寺から南に約五キロ。途中、釈迦庵・お京塚といった処があり、恩山寺から立江寺までに九つの橋があり、心やましい者は渡ることが出来ないと伝えられているのも有名な話だそうです。よって、昔から八十八ヶ所霊場参りの最初の関所とも言われ、立江寺で納経をすますとお遍路たちは胸をなでおろしたと言う・・・仁王門をくぐり左手に本堂、右手に大師堂、正面に納経所。大師堂の横に多宝塔が建っています。昭和49年(1974)火災により本堂を含め焼失、3年後に再建されました。本尊延命地蔵菩薩及び寺宝絹本(けんぽん)着色釈迦三尊(国の重要文化財)は火災から免れています。又、本堂天井には東京藝術大学の西村公朝教授の指導で卒業生の画家たちによる花鳥図が見事に描かれています。「立江のお地蔵さん」で多くの人たちに親しまれているのも有名なお寺でお寺の周辺はお店も多く賑やかな町の中にある。


豆知識・・・【納め札(納札)の色】四国お遍路で用いているお札は 1回〜4回・・・白札/5回〜7回・・・緑札/8回〜24回・・・赤札/25回〜49回・・・銀/50回〜99回・・・金 というのが一般的で、100回を迎えると(錦札)金襴柄の納め札になり、金札・錦札を頂く事は、大変な御利益を頂くとも言われています。
今回遍路に出て頂く事が出来た金札です。50回以上の方達ばかりですが、一人の方は64回目と裏に印刷しています。四国霊場公認の大先達の方達ばかりで大変な功徳を頂きました。これも四国八十八ヶ所に出ないと得られない出会いです。

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