殿の気まぐれ散策日記 | |||||||||||||||||||||
身近な有田で 偉大なる一族の歴史と共に、醤油で財を築きあげた濱口家の歴史に触れてみたいと思います。 |
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当地、有田地方には偉大な方が居られます。其の名は濱口梧陵。 我が有田川町の隣町で広川町の濱口家が生家。 今で言うと財閥か??大富豪の様な華麗なる一族が居られました。 徳川幕府においては、紀州藩勘定奉行に、また 満州国においては皇帝“ラストエンペラーまで及ぶ壮大な濱口一族の歴史をご案内します。 |
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西濱口家の梧陵 | |||||||||||||||||||||
濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日(1820年7月24日) - 1885年(明治18年)4月21日)は、紀伊国広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目浜口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる。 |
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梧陵と近代医学梧陵はさまざまな社会事業を手がけたが、とくに医学への支援を厚く行っている。梧陵の支援と影響を受けた一人が、関寛斎である。寛斎は1856年(安政3年)、佐藤泰然の推薦によって銚子で医院を開業し、梧陵との知遇を得た。当時流行していたコレラの防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎(三宅秀の父)の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげた。なお、西洋種痘所が焼失すると、1859年に梧陵は種痘所の再開のために300両を寄付している。 その成果により、梧陵は寛斎を経済的に支援し、1860年(万延元年)長崎に留学させた。蘭学医・ポンペのもとで1年間学んだ寛斎は、1862年(文久2年)、銚子に戻る。梧陵は寛斎に長崎での留学を続けるよう勧めたが、寛斎は翌1863年に徳島藩の藩医となり徳島へ移住する。寛斎はのちに梧陵の勧めに従わなかったことを悔いたという。 梧陵は1862年に出版された医学書『七新薬』(司馬凌海著、関寛斎校)の出版に関わる費用を援助するなど、日本の近代医学の発展にも深く関わっている。 また、最近テレビにて放送されている南方仁とも濱口梧陵は縁があったようです。 南方 仁(みなかた じん、生没年不詳)は幕末期の医師であり、仁友堂の創設者。本人の記憶喪失のために出自不明。文久2年(1862年)頃より医療活動に従事し、ペニシリンの発見、点滴法の確立、ABO血液型の提唱など、多くの先進的な医療技術への革命を起こした。 |
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政治家としての梧陵1868年(慶応4年)には、商人身分ながら異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行に任命され、後には藩校教授や大参事を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩・和歌山県経済の近代化に尽力した。その後、1871年(明治4年)には、大久保利通の要請で初代駅逓頭(えきていのかみ)(後の郵政大臣に相当)に就任するが、半年足らずで辞職する。1880年(明治13年)、和歌山県の初代県議会議長に就任した。そして、国会開設に備えて、木国同友会を結成した。1885年(明治18年)にかつての夢だった世界旅行に行くも、アメリカ・ニューヨークで病没した。享年66(満64歳没)。 |
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濱口梧陵は広村(現在の広川町)で分家濱口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子となり、銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継ぐ。 安政元年(1854)、梧陵が広村に帰郷していた時、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。 梧陵は、稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、安全な場所に避難させました。 しかし、津波により村には大きな爪あとが残り、この変わり果てた光景を目にした梧陵は、故郷の復興のために身を粉にして働き、被災者用の小屋の建設、農機具・漁業道具等の提供をはじめ、各方面において復旧作業にあたりました。また、津波から村を守るべく、長さ600m、高さ5mの防波堤の築造にも取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えました。 梧陵は、他の分野においても優れた才能を発揮しました。教育面では、江戸時代末期に濱口東江、岩崎明岳とともに私塾を開設し、剣道や学業などの指導にあたりました。この私塾は後に「耐久社」と呼ばれ、変遷を経て現在の耐久中学校になっています。 明治4年(1871)に梧陵は大久保利通の命を受けて駅逓頭に就任したのをはじめ、明治12年(1879)には和歌山県議会初代議長に選任されました。議長辞任後は木国同友会を結成し、民主主義を広める活動を展開しました。 明治18年(1885)梧陵の長年の願いであった欧米への視察途中、ニューヨークにて永眠しました。 梧陵が築造した堤防 |
濱口家 (ヤマサ醤油)
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濱口梧陵生家で西濱口家。敷地は広大で、現在敷地内には濱口梧陵記念館。また、この建物の奥には、鉄筋三階建ての稲村の火の館があり、地震に関す防災教育センタ−は2007年にオ−プンし、津波や防災に関する資料も展示、あわせて濱口梧陵数々の資料も展示しています。2011年4月に入場者数は10万人を突破した。 | |||||||||||||||||||||
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西濱口家と(ヤマサ醤油) 初代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは1645年(正保2年)です。新しい漁労法で大成功をおさめて銚子外川港を作った、同じく紀州出身の崎山次郎右衛門という人物に刺激されて銚子での商売を始めたのではないかといわれています。以来、ヤマサ醤油は創業から3世紀半以上、途中若干の起伏盛衰はありましたが、12代に渡り品質の高い醤油を作り続けてます。 同時に、銚子は気候が醤油作りに最適な紀州とよく似ていることもあり、漁業だけではなく醤油の町としても発展していきました。 1864年(元治元年)、ヤマサ醤油が幕府より特に品質に優れた醤油として認められ、最上醤油の称号を得たのも梧陵の時代です。1895年(明治28年)に、ヤマサ醤油はその品質の高さが認められ、関東初の宮内省(現在の宮内庁)御用達に選ばれました。
梧陵が刺激された崎山次郎右衛門も、また広川町出身で生家は濱口家の直ぐ近くだった。
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東濱口家 重厚なレンガ作りの高い塀が、何とも威圧感が感じられ、敷地は広大で東濱口公園は圧巻です。また、住居である場所は、高い塀で中を窺うことは出来ないが、木造の三階建ての大きい母屋が見え、倉も数多く見えます。当時は使用人の数も多くて、沢山の人がこの中に居た事でしようね??? また、この周辺の町並みも旧家や豪商が多く、当時の建物の保存状態も良くて、昔の風情も感じられる地区でもあり、道も綺麗に整備され散策にも適しています。 | |||||||||||||||||||||
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東濱口家と(ヒゲタ醤油) | |||||||||||||||||||||
濱口吉兵衛<はまぐちきちべえ>(ヒゲタ醤油) |
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情報閲覧・取材協力・稲村の火の館・ヤマサ醤油・ヒゲタ醤油・ウィキペディア日本語版 | |
「愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人」(渡辺みどり/著)「流転の王妃の昭和史」(愛新覚羅浩/著) | |
・ヒゲタ醤油 |
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私のお奨め醤油 最後に、私がお奨めする地元の醤油をご紹介します。醤油発祥の湯浅の地で修業し、現・有田川町(旧金屋町)で創業100年の歴史をもつカネイワ醤油をご紹介します。味はとてもサッパリとしていますが、大豆の香ばしさがしっかりと感じるコクの有る美味しい掛け醤油がお奨めです。是非一度お試しあれ。。サイトにはカネイワ醤油の文字を押してください。 |
今回、殿の気まぐれ散策日記をお読み頂き有り難う御座いました。 次回も何か夢とロマンが楽しめるような取材をして見たいと思います。 それでは皆様ごきげんよう。 |