殿の気まぐれ散策日記


身近な有田で 偉大なる一族の歴史と共に、醤油で財を築きあげた濱口家の歴史に触れてみたいと思います。

当地、有田地方には偉大な方が居られます。其の名は濱口梧陵。 我が有田川町の隣町で広川町の濱口家が生家。
今で言うと財閥か??大富豪の様な華麗なる一族が居られました。
徳川幕府においては、紀州藩勘定奉行に、また 満州国においては皇帝“ラストエンペラーまで及ぶ壮大な濱口一族の歴史をご案内します。
西濱口家の梧陵

濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日1820年7月24日) - 1885年明治18年)4月21日)は、紀伊国広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家梧陵雅号で、公輿成則。醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目浜口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる。

濱口儀兵衛(梧陵)<はまぐちぎへえ(ごりょう)>(ヤマサ醤油)
生 1820年(文政3)6月15日
没 1885年(明治18)4月21日
 ヤマサ醤油7代目社長。名は成則。紀州広村(和歌山県有田郡広川町)の分家に生まれる。12歳で本家である6代目濱口儀兵衛(保平)の養子となる。1854年(安政元)、紀州に戻っていた儀兵衛(梧陵)は、巨大地震(安政東海地震と安政南海地震という2日連続して起きた地震)に遭遇した際、潮の引き方や井戸水の変化などから津波が来ることを察知し、村人を高台へ避難させる為、自分の田んぼに積んであった稲束に火を付けて道しるべにさせて多くの人命を救った。この人命救助については、明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が自著の中で「生ける神」と賞賛し、当時の教科書にも「稲むらの火」として紹介された。その後、私財を投じて仮設住宅の建設や農漁具の調達などを行い、離村を防止した。また、将来の津波被害防止の為に対しても多額の私財を投じて、1855年(安政2)から約4年をかけて、全長600m・高さ5m・幅20mの堤防を建設した。1858年(安政5)、江戸でコレラが流行した時、銚子の開業医・関寛斎を江戸に招き、親交のあった名医に預けて予防法や治療法を研究させ、銚子地方を救った。また、翌年には、江戸のお玉ヶ池種痘所(東京大学医学部の前身)が火災で焼失した際、巨額を寄付して再建した。幕末から明治にかけて、佐久間象山・勝海舟・福沢諭吉などとも親交があった。


梧陵と近代医学

梧陵はさまざまな社会事業を手がけたが、とくに医学への支援を厚く行っている。
梧陵の支援と影響を受けた一人が、関寛斎である。寛斎は1856年(安政3年)、佐藤泰然の推薦によって銚子で医院を開業し、梧陵との知遇を得た。当時流行していたコレラの防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)に赴かせ、伊東玄朴三宅艮斎三宅秀の父)の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげた。なお、西洋種痘所が焼失すると、1859年に梧陵は種痘所の再開のために300両を寄付している。

その成果により、梧陵は寛斎を経済的に支援し、1860年万延元年)長崎に留学させた。蘭学医・ポンペのもとで1年間学んだ寛斎は、1862年文久2年)、銚子に戻る。梧陵は寛斎に長崎での留学を続けるよう勧めたが、寛斎は翌1863年に徳島藩の藩医となり徳島へ移住する。寛斎はのちに梧陵の勧めに従わなかったことを悔いたという。
梧陵は1862年に出版された医学書『七新薬』(司馬凌海著、関寛斎校)の出版に関わる費用を援助するなど、日本の近代医学の発展にも深く関わっている。

 また、最近テレビにて放送されている南方仁とも濱口梧陵は縁があったようです。
南方 仁(みなかた じん、生没年不詳)は幕末期の医師であり、仁友堂の創設者。本人の記憶喪失のために出自不明。文久2年(1862年)頃より医療活動に従事し、ペニシリンの発見、点滴法の確立、ABO血液型の提唱など、多くの先進的な医療技術への革命を起こした。

政治家としての梧陵

1868年慶応4年)には、商人身分ながら異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行に任命され、後には藩校教授や大参事を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩・和歌山県経済の近代化に尽力した。その後、1871年明治4年)には、大久保利通の要請で初代駅逓頭(えきていのかみ)(後の郵政大臣に相当)に就任するが、半年足らずで辞職する。1880年(明治13年)、和歌山県の初代県議会議長に就任した。そして、国会開設に備えて、木国同友会を結成した。1885年(明治18年)にかつての夢だった世界旅行に行くも、アメリカニューヨークで病没した。享年66(満64歳没)。


濱口梧陵は広村(現在の広川町)で分家濱口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子となり、銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継ぐ。
 安政元年(1854)、梧陵が広村に帰郷していた時、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。
 梧陵は、稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、安全な場所に避難させました。
 しかし、津波により村には大きな爪あとが残り、この変わり果てた光景を目にした梧陵は、故郷の復興のために身を粉にして働き、被災者用の小屋の建設、農機具・漁業道具等の提供をはじめ、各方面において復旧作業にあたりました。また、津波から村を守るべく、長さ600m、高さ5mの防波堤の築造にも取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えました。
 梧陵は、他の分野においても優れた才能を発揮しました。教育面では、江戸時代末期に濱口東江、岩崎明岳とともに私塾を開設し、剣道や学業などの指導にあたりました。この私塾は後に「耐久社」と呼ばれ、変遷を経て現在の耐久中学校になっています。
明治4年(1871)に梧陵は大久保利通の命を受けて駅逓頭に就任したのをはじめ、明治12年(1879)には和歌山県議会初代議長に選任されました。議長辞任後は木国同友会を結成し、民主主義を広める活動を展開しました。
 明治18年(1885)梧陵の長年の願いであった欧米への視察途中、ニューヨークにて永眠しました。




梧陵が築造した堤防

 濱口家 (ヤマサ醤油)

  • 初代 濱口儀兵衛
  • 初代濱口儀兵衛は紀州広村(和歌山県有田郡広川町)の出身です。彼が紀州から銚子に渡り、創業したのは1645年(正保2)とされています。(他に、1700年(元禄13)に銚子店を開いた時に醤油醸造を始めたという説もあります) 
  • 二代 濱口教了 三代 濱口教寛
  • 四代 濱口安六 五代 濱口灌圃
    • 保平
    • 七右衛門(分家、梧陵の父)
  • 六代 濱口保平 
  • 七代 濱口梧陵
  • 濱口儀兵衛(梧陵)<はまぐちぎへえ(ごりょう)
    生 1820年(文政3)6月15日
    没 1885年(明治18)4月21日
     ヤマサ醤油7代目社長。名は成則。紀州広村(和歌山県有田郡広川町)の分家に生まれる。12歳で本家である6代目濱口儀兵衛(保平)の養子となる。1854年(安政元)、紀州に戻っていた儀兵衛(梧陵)は、巨大地震(安政東海地震と安政南海地震という2日連続して起きた地震)に遭遇した際、潮の引き方や井戸水の変化などから津波が来ることを察知し、村人を高台へ避難させる為、自分の田んぼに積んであった稲束に火を付けて道しるべにさせて多くの人命を救った。この人命救助については、明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が自著の中で「生ける神」と賞賛し、当時の教科書にも「稲むらの火」として紹介された。その後、私財を投じて仮設住宅の建設や農漁具の調達などを行い、離村を防止した。また、将来の津波被害防止の為に対しても多額の私財を投じて、1855年(安政2)から約4年をかけて、全長600m・高さ5m・幅20mの堤防を建設した。1858年(安政5)、江戸でコレラが流行した時、銚子の開業医・関寛斎を江戸に招き、親交のあった名医に預けて予防法や治療法を研究させ、銚子地方を救った。また、翌年には、江戸のお玉ヶ池種痘所(東京大学医学部の前身)が火災で焼失した際、巨額を寄付して再建した。幕末から明治にかけて、佐久間象山・勝海舟・福沢諭吉などとも親交があった。

  • 八代 濱口梧荘 九代 濱口梧圃
  • 十代 濱口梧洞(醤油王)

    濱口儀兵衛(梧洞)<はまぐちぎへえ(ごどう)
    生 1874年(明治7)4月24日
    没 1962年(昭和37)1月31日
     ヤマサ醤油10代目社長。名は慶次。和歌山県に生まれる。東京帝国大学理科選科に学んだ後、海外留学し、イギリスにおいて醸造化学を専攻した。1925年(大正14)から1939年(昭和14)まで貴族院議員として活動した。また、全国醤油醸造組合連合会理事長、全国醤油統制株式会社社長などを歴任した。一方も社会教育にも思いを寄せ、滋賀県長浜町(長浜市)の財団法人下郷共済会や香川県丸亀市の財団法人鎌田共済会などの施設を調査し、1924年(大正13)に巨額の私財を投じて、公正会館を建設した。この公正会館には公正学院・図書館、人事相談所等も併設され、当時の銚子町のほか2町2村の総合社会機関として役立ったが、1948年(昭和23)に、財団法人を解散し、施設の一切を市に寄付した。

    • 陽三(版画家)

      陽三は10代目浜口儀兵衛の三男に当たる。また、陽三の妻である南桂子も版画家である。浜口は東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻を専攻したが、2年で退学しパリへ渡航した。パリ滞在中の1937年(昭和12年)頃からドライポイント(銅板に直接針で図柄を描く、銅版画技法の一種)の制作を試み、版画家への一歩を記し始めた。戦時色の濃くなる中、1939年(昭和14年)に日本に帰国。自由美術家協会に創立会員として参加するが、戦時下にはなかなか作品発表の場が無かった。1942年(昭和17年)には経済視察団の通訳として仏領インドシナベトナム)に渡航し、1945年(昭和20年)帰国している。

  • 十一代 濱口勉太
  • 十二代 濱口道雄
濱口梧陵生家で西濱口家。敷地は広大で、現在敷地内には濱口梧陵記念館。また、この建物の奥には、鉄筋三階建ての稲村の火の館があり、地震に関す防災教育センタ−は2007年にオ−プンし、津波や防災に関する資料も展示、あわせて濱口梧陵数々の資料も展示しています。2011年4月に入場者数は10万人を突破した。

西濱口家と(ヤマサ醤油)
初代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは1645年(正保2年)です。新しい漁労法で大成功をおさめて銚子外川港を作った、同じく紀州出身の崎山次郎右衛門という人物に刺激されて銚子での商売を始めたのではないかといわれています。以来、ヤマサ醤油は創業から3世紀半以上、途中若干の起伏盛衰はありましたが、12代に渡り品質の高い醤油を作り続けてます。 同時に、銚子は気候が醤油作りに最適な紀州とよく似ていることもあり、漁業だけではなく醤油の町としても発展していきました。 1864年(元治元年)、ヤマサ醤油が幕府より特に品質に優れた醤油として認められ、最上醤油の称号を得たのも梧陵の時代です。1895年(明治28年)に、ヤマサ醤油はその品質の高さが認められ、関東初の宮内省(現在の宮内庁)御用達に選ばれました。
  • 1645年 - 廣屋儀兵衛商店として創業する。初代・濱口儀兵衛が「山笠にキ」の暖簾を考えるが、紀州徳川家の船印と同じだったため、キを横向きにした所、サと読めることからヤマサとした。
  • 1854年 - 第七代当主濱口梧陵が安政南海地震において津波の来襲から村人を救い、その後「稲むらの火」として紹介される。
  • 1864年 - 江戸幕府より品質に優れた醤油として、最上醤油の称号を拝領、商標の右上にある「上」の由来となる。
  • 1885年 - 国産ソース第一号のミカドソースを開発、新味醤油として商標登録
  • 1899年 - 醤油研究所を開設
  • 1928年11月 - 濱口儀兵衛商店を、株式会社組織への改組を期に、現在のヤマサ醤油株式会社に社名変更
  • 1957年 - リボ核酸分解法による調味料製造法を発明
  • 1970年 - 医薬品製造免許を取得
  • 1986年 - 診断薬の製造販売を開始
  • 1993年 - ソリブジン薬害事件発生
  • 1994年7月 - アメリカ工場(オレゴン州)完成
  • 2000年 - ISO 9001認証取得

梧陵が刺激された崎山次郎右衛門も、また広川町出身で生家は濱口家の直ぐ近くだった。
  • 生年: 慶長16 (1611)
    没年: 元禄1.8.4 (1688.8.29)
    江戸前期,下総銚子漁業・高神村字外川湊築港開発漁師。名は安久,幼名は助五郎,屋号は大納屋紀州(和歌山)藩の地士頼安の子として有田郡広に生まれる。農漁業に従事していたが,木綿・藍・柑橘砂糖作の適効肥料として重要視される房総の鰯に目をつけた上方・紀州海民の積極的な関東旅漁に呼応して明暦2(1656)年以後は下総飯沼村,今宮村,外川浦(いずれも千葉県)へと転住。延宝5(1677)年広に帰国するまでのこの間,任せ網・八手網の導入,干鰯場の開設,西方寺(のちの宝満寺)の建立尽力した。特筆すべきは万治1(1658)年,寛文1(1661)年の2期にわたった外川湊築港と市街地建設で,湊の築立技術の優秀さは大正11(1922)年の全面改築まで活用されたことでも知れる。4代目次郎右衛門が安永3(1774)年に紀州へ引き揚げ,この外川での漁業は終焉した。<参考文献>『銚子木国会史』,『広川町史』上下
  • http://www.gyokou.or.jp/100sen/100img/03kanto/031.pdf
  • 番外・話は少し外れるが濱口家に山崎家は千葉県銚子に縁があるようだが・・・
  • 元々、千葉県と和歌山県は縁が深く、千葉の外房には和歌山と同じ勝浦・白浜の地名があり、当時 紀州から千葉に移り住んだ人が多く居る。その後 出身地の地名を付けたとかで現在に至っているそうです。

東濱口家 重厚なレンガ作りの高い塀が、何とも威圧感が感じられ、敷地は広大で東濱口公園は圧巻です。また、住居である場所は、高い塀で中を窺うことは出来ないが、木造の三階建ての大きい母屋が見え、倉も数多く見えます。当時は使用人の数も多くて、沢山の人がこの中に居た事でしようね??? また、この周辺の町並みも旧家や豪商が多く、当時の建物の保存状態も良くて、昔の風情も感じられる地区でもあり、道も綺麗に整備され散策にも適しています。

東濱口家と(ヒゲタ醤油)

濱口吉兵衛<はまぐちきちべえ>(ヒゲタ醤油)
生 1868年(明治元)7月
没 1940年(昭和15)10月4日
 紀州広村(和歌山県有田郡広川町)に生まれる。8代目濱口吉右衛門(熊岳<ゆうがく>)の第四子で名は茂之助。東京帝国大学卒業。卒業後、兄の9代目濱口吉右衛門が、政界・経済界で活躍して多忙だった為、しばらくの間、兄を助けて家業に携わった。1892年(明治25)、濱口儀兵衛(梧洞)と一緒に海外視察をしたが、その際に儀兵衛から醤油醸造について様々なことの教えを受けることが出来た。
 1901年(明治34)、武総銀行を設立して取締役となり、翌年から3年間は第一生命保険相互会社の監査役も務めた。1904年(明治37)に、兄の濱口吉右衛門家から分家し、初代濱口吉兵衛を名乗った。1906年(明治39)、田中玄蕃の出蔵(でぐら)が売りに出た時、儀兵衛の勧めで買い取った。この時、儀兵衛が以前に廃業した醸造元から譲り受けていた“ジガミサ”という商標を譲渡された。
 1907年(明治40)、豊国銀行設立に参加して監査役になる他、東京護謨工業や第一相互貯蓄銀行の監査役などを歴任した。1913年(大正2)、銚子遊覧鉄道株式会社(銚子電気鉄道の前身)及び、銚子ガス株式会社の社長に就任。1914年(大正3)に家業を、田中玄蕃や深井吉兵衛とともに銚子醤油合資会社(ヒゲタ醤油の前身)として発展させた。4年後に株式会社化した時に初代社長となった。1920年(大正9)から衆議院議員(二期8年)となった後は、銚子港の修築を関係各方面に訴え続け、国庫補助による県営工事が実現した。


昭和12年、満州国皇帝“ラストエンペラー”溥儀の弟・愛新覚羅溥傑に日満親善の美名のもと、、軍部の仕組んだ政略結婚により、
嫁いだ嵯峨侯爵家の長女・
嵯峨浩。満州に嫁いだ浩にとって、関東軍の待遇のひどさには、何度も泣かされ、その頃、口うるさい人々はやっかみもあってか、
「五十万円で満州に買われてきた」とか、「醤油屋の娘」など、さまざまの悪口を言い立てる人がいたそうだが・・・???


「醤油屋の娘」・・・、そう、浩の母方は、上記原作本などからの説明を抜粋すると・・・

“紀州の古い家柄で、祖父の濱口容所(ようしょ)は、貴族院や衆議員に何回か当選し、
九州電力社長や豊国銀行頭取などを歴任し、ヒゲタ醤油を再興させた東濱口家の大実業家で、
また詩人墨客、絵画の収集家としても知られた人。”
しかし、“ヒゲタ醤油を再興させた”という部分は、少々、誤りではないかと、思われる様だが・・・???
実際、政財界、特に実業界の大物で貴族院議員になる程に、相当の財を成した方ですが、
容所(吉右衛門)は大正2年に51歳で亡くなっており、下記にも説明を書いていますが、
再興させたのは、弟の濱口吉兵衛が、正解だと思われます。
ところで、濱口家は、とにかく同じ名前を代々襲名して、
吉右衛門やら、吉兵衛が続くので、非常にまぎらわしくて、ややこしい!!

醤油の代表的生産地、千葉県には野田を根城とするキッコーマンと、
NHK朝の連続TV小説「澪つくし」の舞台にもなった銚子を根城とする
ヤマサ醤油ヒゲタ醤油とがあるが、ヤマサもヒゲタも経営者は濱口一族であり、
ヤマサの当主は代々「儀兵衛」を、ヒゲタは「吉右衛門」を名乗ってきた。

実は、この両濱口家は元々同族で、初代吉右衛門は、ヤマサ醤油の初代儀兵衛の兄で、
弟が造る醤油や海産物を販売し、兄弟コンビで江戸で商売を始めていたのである。


この両家の関係は、ヤマサ醤油が創業以来、明治末頃まで続き
儀兵衛家が製造、吉右衛門家が販売を担当するという分業体制を維持してきた。

それに、ピリオドが打たれたのは、ヤマサが、明治42年の出火により、
すべてが灰燼に帰したことによる。
生産が止まったために販売部門は独立せざるを得なかった。

9代浜口吉右衛門(容所・浩の祖父)の弟・浜口吉兵衛は本家吉右衛門家から分家して、
明治38年千葉県銚子町に工場を建設し、醤油製造を始めていたが、
大正3年9月、銚子の他の醤油醸造業者二家(田中玄蕃深井吉兵衛)と
合体して、「銚子醤油」を設立し、工場や製法も近代化し、商標を“ヒゲタ”
統一して、初代社長には、浜口吉兵衛が就任した。

そして、先発大メーカーの“ヤマサ”の追撃を開始した。
(“ヒゲタ”は、田中玄番が銚子の地に1616年(元和2年)創業)
そして、吉右衛門家は、その“ヒゲタ”の販売部門に参入した。

新興“ヒゲタ”は順調に成長し、分家の吉兵衛が興したものだったが、
次第に本家吉右衛門家の家業の中心に育っていく。
1697年(元禄10年)第五代田中玄蕃が醸造法を改良して、江戸の食味に合う「関東風の醤油」を醸造しました。
原料に小麦を配合するなどして「甘辛い」「香りのよい」醤油にして、蕎麦、てんぷら、鰻の蒲焼、寿司、煮物など江戸の食の味付けに合うものにしました。

戦後、昭和21年には、10代吉右衛門(乾太郎・浩の伯父)が亡くなり、
昭和26年に、11代濱口吉右衛門(久常)が社長に就任、
その後、昭和49年には、野田のキッコーマンの一族であり、吉兵衛(麟蔵)の娘婿でもある
茂木新七が社長に就任、社名を銚子醤油からをヒゲタ醤油に改称した。

そして、昭和62年には、12代吉右衛門(勝久)に社長の椅子をバトンタッチした。
現在は、その弟・濱口敏行が平成14年より社長を務める。


●濱口・茂木・鈴木家           西濱口家の梧陵と、東濱口家の浩は同じ濱口の一族。        
濱口吉右衛門
(9代) (容所)
1862〜1913(大正2年)/衆議院議員3期(1896〜1902)・進歩党・憲政本党、
貴族院議員(1907〜13/多額納税者)/浩の母方祖父/
濱口家は紀州の有力家であり、代々、日本橋に老舗の醤油・塩・紀州物産の問屋を構えていた。
9代吉右衛門は慶応義塾を出て、醤油醸造販売業、植林事業を営む。
のち、衆議員議員となり財政整理国本培養論を建策して重視される。/
鐘淵紡績重役、富士瓦斯紡績・九州水力電気・高砂製糖社長、豊国銀行頭取、
朝鮮銀行幹事、濱口代表社員、猪苗代水力電気取締役等を歴任。
濱口吉兵衛 1868〜1940/衆議院議員2期(1920〜28)・立憲政友会/8代吉右衛門の三男・9代の弟/
東京帝国大学法科大学に学び中途退学して欧米視察。日露戦争に出征、殊勲を立て陸軍歩兵中尉。
実業界に転じ、名声衰えたるヒゲタ醤油を再興、品質の吟味醸造方法の改良につとめて
“ヒゲタ”をヤマサ印、亀甲萬印と共に醤油界におけるブランドとしての地位を確立させる。
明治後期、中央財界で活躍し、矢野恒太とともに第一生命を興した人物としても知られる。
大正9年より、衆議院議員をつとめ、銚子港整備大事業に取り組んだ。/
銚子醤油・千葉県水産社長、濱口理事、武総銀行取締役、
第一相互貯蓄銀行・東京護謨工業・第一生命・豊国銀行・利根織物監査役等歴任。
濱口吉右衛門
(10代)(乾太郎)
(無悶)?
1883〜1946/銚子醤油・東濱植林社長/9代の長男、浩の伯父/
米国エール大学に留学、帰国後、濱口合名会社員、先代没後、代表社員を経て、濱口商事社長。
浩が生まれた時、母・尚子(ひさこ・1896生)は18歳の若さであり、続いて妹達が生まれたため
小学校入学前から上大崎の濱口邸に引き取られ、祖母・糸子や伯父夫妻と暮らしていた。
溥傑との見合いはその「ルイの間」で行われた。
※当時の浩の結婚を伝える新聞記事では、「吉左衛門」と書かれており、間違っているようです。
濱口吉兵衛
   (麒蔵)
1892生/銚子醤油会長、第一生命社長/
10代吉右衛門の弟、濱口吉兵衛(叔父)家に養子入り・妻はその娘/浩の伯父
濱口吉右衛門
(11代)(久常)
1907生/S26年より銚子醤油社長/10代の長男、妻は野津侯爵家の長女
茂木新七 1914生/S49年より銚子醤油社長。社名をヒゲタ醤油に変更。/妻は濱口吉兵衛(麟蔵)の娘/
茂木家はキッコーマン一族。
濱口吉右衛門
(12代)(勝久)
1936生/S62年よりヒゲタ醤油社長・現会長/11代の長男、妻は鈴木恭二の娘
鈴木恭二 元味の素会長・社長/鈴木家は味の素一族
濱口敏行 現ヒゲタ醤油社長/11代の次男

情報閲覧・取材協力・稲村の火の館・ヤマサ醤油・ヒゲタ醤油・ウィキペディア日本語版
愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人(渡辺みどり/著)流転の王妃の昭和史(愛新覚羅浩/著)

・ヒゲタ醤油
最寄駅:JR銚子駅
      千葉交通 旭駅又は玉崎神社行き「清川町」(銚子駅前ロータリー外側2番乗り場)
      ちばこうバス 春日町・市立高校循環「清川町」(銚子駅前ロータリー外側1番乗り場)
駐車場:有り(駐車場所は見学受付で確認)
トイレ:有り(工場敷地内トイレ)
身障者用トイレ:有り
 
・ヤマサ醤油
最寄駅:銚子電鉄・仲ノ町駅
      千葉交通 千葉科学大学行き「妙見橋」(銚子駅前5番乗り場)
駐車場:有り(駐車場所は見学受付で確認)
トイレ:有り(工場敷地内トイレ)
身障者用トイレ:有り


私のお奨め醤油
最後に、私がお奨めする地元の醤油をご紹介します。醤油発祥の湯浅の地で修業し、現・有田川町(旧金屋町)で創業100年の歴史をもつカネイワ醤油をご紹介します。味はとてもサッパリとしていますが、大豆の香ばしさがしっかりと感じるコクの有る美味しい掛け醤油がお奨めです。是非一度お試しあれ。。サイトにはカネイワ醤油の文字を押してください。

今回、殿の気まぐれ散策日記をお読み頂き有り難う御座いました。
次回も何か夢とロマンが楽しめるような取材をして見たいと思います。
それでは皆様ごきげんよう。

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